Representative Statement

AI音楽制作について

道具は変わっても、変わらないもの。Syllable Music 代表・橋坂健太郎による、AI音楽制作についてのステートメント。

道具が変わるたび、同じ言葉が投げられてきました。

私はもともと、DTMで音を打ち込んできた人間です。MML――音符を文字で書き込む言語――で曲を組んでいた頃から、「機械に音を出させる」ことはずっと私の音楽の一部でした。手で弦を押さえる前に、私は音を書いて鳴らしていました。だから今、AI音楽に投げられる「あれは本物の演奏じゃない」という言葉は、私にとって初めて聞くものではありません。それは、新しい道具が出るたびに必ず投げられてきた、使い古された言葉です。

エレキギターも、同じでした。

そもそも、今のエレキギターの形を作ったレオ・フェンダーは、ギターを弾けず、音楽家ですらなく、ラジオ修理を生業とする電気技師でした。演奏家でない人間が生んだ道具が、その後の音楽を丸ごと塗り替えたのです。増幅器で音を大きくすることは「自分の手で鳴らしていない」と言われ、歪みやハウリングは最初「故障」「雑音」と呼ばれました。だがミュージシャンは、その欠陥を飼いならしてロックの心臓に変えました。批判者が捨てろと言った音が、表現の核になったのです。エレキは演奏を偽物にしたのではありません。音色を作り、サステインを操り、ハウリングを制御するという新しい腕を足しただけです。

小室哲哉も、同じでした。

シンセと打ち込みで90年代のJ-POPを丸ごと作り変えたとき、生演奏を本物とする立場は「打ち込みは本当の演奏じゃない」と言いました。だが彼がすごかったのは、シンセを持っていたからではありません。シンセは誰でも買えました。彼がすごかったのは、サビの強さ、コード感、曲の設計、音のデザイン――つまり判断です。機械が曲を良くしたのではなく、彼の選択が良くしたのです。

AIは楽器だ。それが創作になるかは、作り手がどれだけ意図と判断と文脈を持ち込むかで決まる。

私は、この歴史の続きに立ちたいと思っています。

エレキは音の鳴り方を電気に預け、打ち込みは音の並べ方をシーケンサーに預け、サンプリングは素材の選び方へ技術を移しました。AIはそれをさらに進めて、音の生成そのものを道具に預けます。段は変わりましたが、はしごは同じです。そして毎回、同じことが確かめられてきました――音楽かどうかを決めるのは、機械が何をしたかではなく、人が何を聴き取り、何を選び、何のために作るかなのです。

だから私にとってAIは、より深くまで届く新しい楽器です。その楽器を音楽家でなくエンジニアが作ったことも、フェンダーのギターと変わりません――道具を誰が作ったかは、鳴った音楽の真贋を決めないのです。この曲を何のために、誰に向けて、なぜこの形で鳴らすのか。無数に出てくる候補から「これでいい/これは違う」と切り分ける耳。地域や季節や、誰かの願いにその曲を結び直す文脈づけ。ここは道具に渡せません。むしろ生成が安く速くなるほど、この判断の比重は増していきます。歪みやハウリングを表現に変えたのと同じように、AIのクセや想定外の出力を狙って捕まえ、作品に変えられるか――それが今の私の、腕の見せ所です。

同時に、私はAI音楽を丸ごと擁護するつもりはありません。「悲しい曲」と打って出た一発目をそのまま出すなら、そこに創作的な決定はほとんどありません。その意味では批判は正しいと思います。だから私は防衛線をはっきり引きます。AIは楽器であり、それが創作になるかは、作り手がどれだけ意図と判断と文脈を持ち込むかで決まります。「AIだから創作じゃない」は的外れで、本当の問いは「あなたはそこに何を足したのか」です。

分かれ目は、手か機械かではありません。

料理に喩えると分かりやすいと思います。こだわりの料理人がいる店と、効率のよい生産ラインで高品質を出すコンビニ――作る過程はまるで違いますが、食べる側には美味しいことに変わりはなく、その日に求めるものも人それぞれです。どちらが上でも下でもありません。ただ、こだわりが「手作りの側」の専売特許だというのは思い込みです。あの美味しいコンビニ飯こそ、細部に執着した“仕組みのこだわり”の結晶で、逆に心のこもらない手作りだってあります。分かれ目は「手か機械か」ではなく、「そこにこだわりが宿っているか」なのです。

私はいわば、効率のいい厨房を使う料理人でありたいと思っています。速く、量も出せる道具の上で、一皿ごとに何のために誰へ届けるのかを決め、無数の候補から“これでいい/これは違う”を選り分けます。手軽さの中にも作り手の意思を通しています――だからこそ、素材の出所(権利)や、街から本物の料理店が消えないための配慮まで、引き受ける意味が出てくるのです。

そして、道具の出自にも責任を持ちます。他人の原盤を無断で使わず、自分のカタログやパブリックドメインの素材、自作の仮歌から起こし、権利をきちんと処理しています。作者性は道具ではなく意図で決まりますが、倫理は倫理として別に引き受けます。この線引きこそが、氾濫する量産物と私の仕事を分けるものだと思っています。

私は、演奏の代わりにボタンを押しているのではありません。

道具が変わっても変わらないもの――何を良いと感じ、何を世に出すかという判断――を、いちばん新しい道具でやっているだけです。

Syllable Music 代表 橋坂 健太郎

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